今回もつらつらと雑記になります。
誰だって不幸になりたくないと思いますが、過ぎる幸福も避けた方が長い人生においては良いのでは?というのが僕の見解です。
「何を言っているんだ…」と思われそうですが、一応根拠があります。
高価な食事に慣れてしまい、普通の食事が美味しく感じなくなってしまう場合に舌が肥えてしまうといった表現をすることがありますよね。
人生も同様のことが言えると思います。
「高級料理店でしか舌を満たせなくなってしまった」「若い時はイケメンで女性に不自由しなかった」「社会に出てから毎日が苦痛、学生時代のように遊んでいたい」など。
どれも良い思いをした時期を基準にしているため、平凡な日常とのギャップに苦しみます。
栄耀(えよう)に餅の皮を剝く
ということわざがあります。
なんでも、贅沢に慣れると餅を剥いてあん餅のあんこの部分だけを食べるようになるという贅沢のかぎりを尽くす行為を表したことわざのようです。
こういう状態が続くと、人間は不幸になると思うんです。
これは僕の経験則でもあります。
以前、新宿にある飲み屋街ゴールデン街や歌舞伎町などで浴びるほど朝までお酒を飲んでいました(今でもたまにやってしまいますが…)
平凡な日常を忘れさせてくれるからです。
夜の街に行くといろんな人に会えます。
濡れ衣で逮捕された男性や偽装結婚しているオカマの男性、耳が不自由な外国の人とスマホの翻訳ソフトを使って会話したこともあります。
平凡な日常とはかけ離れていて、刺激に満ち溢れています。
僕はその刺激を日常の基準にしてしまい、長年浴びるほどお酒を飲み続けました。
幸い病気などにはなりませんでしたが、平凡な日常が苦痛で仕方がなくなりました。
毎日なにかしらの刺激に飢えていました。
もちろん夜の街に行っても自分が期待するような刺激が無い日もあります。
同じ顔ぶれの常連さんと話をするものの、なんとなく盛り上がらなかったり。
ここまでくると偶発的に起こる誰かや何かに刺激を求めるようになり、幸福の基準がどんどん上方修正されていきました。
平凡な日常とのギャップは埋まらないため、いつも「つまらないな…」と感じるようになりました。
貯金がなくなり、節約をする必要に迫られたために飲みに行けなくなったというのをきっかけに、今はこの状態から脱することができました。
平凡な日常の退屈さは個人開発に没頭することで解消し、今この記事を書いています。
長々と私事になってしまいましたが、ベストを基準にすると退屈な日常に押しつぶされてしまうという戒め、警鐘です。
職場も住居も同様です。
転職は5〜6回ほど、引っ越しに至っては30回ほどはしています。
どこへ行っても自分の求めるベストはありませんでした。
そもそも存在しないんですよね、幻想なので。
ですから、人生においてはベストではなくベターを良しとするのが良いと思います。
「仕事して帰宅しただけ、今日もつまらない1日だった」とか「恋人欲しいなあ」とか「旅行いきたいなあ」とか。
ぼんやりとした日常かもしれないですが、それでいいじゃないですか。
この時代のこの日本に生まれただけで幸せだし、そもそもそれ自体がベストな環境に近いはずです。
戦争はしていないし餓死することもない。
食事は安くて美味しい、娯楽もいっぱいある。
平凡な日常かもしれないですが。
そんな平凡で平和な日常を愛することができれば、それだけで幸せだと思います。